第二百四十夜 - 季節のフーリエ変換
4年前にマラケシュを一緒に旅した友人と、久しぶりに少し話をした。くだんの、自身を彫刻する接線の集合体の話に触れて、彼は、「フーリエ変換できるかもしれないね」とだけ云って、少し間を置いた。さて、どういうことだろう。でもフーリエ変換というのは、季節を考えたりする時に、面白い考え方かもしれない。

電車を降りてホームを歩くと、艶やかに湿った空気が、何かの華を思わせたりする。そして、月がすこし朧気にみえていて、これは、次の季節の匂いにも似ていたりする。つまり、いまは冬にまだ少し居ながら、春の足跡を聞いているんだね。ただ帰り道には、春をさらに飛び越した、雨上がりの夏の朝の匂いすら感じることができる。
すべての季節は独自のリズムを持っているけど、ただそれぞれのリズムですべて、拍子が違っているだけなのかな。すべての季節は、一年間を通して、そのリズムを刻んでいるけれども、秋にはたまたま秋のリズムが強調されているがために、ぼくたちは、ほかの三つのリズムを聴き逃してしまっている。でも、ある季節に、あるリズムの中に、ふと別のリズムがきこえてくることがある。
三拍子の冬と、四拍子の春がある。最近はずっとワルツにしか聞こえなかったけど、すこし暖かくなると、ふと空気の中に、4拍子のヒントを見出すことができる。すると、最小公倍数の12拍目の後に、同じシンバルが刻まれる!ここで二つの季節が混じり合う。小春日和とかね。これはフーリエ的?でもないか。

と答えると、彼はこう云った、「時間の波、曜日の波、季節の波、厄年の波、寄る年の波、そして鼓動の波、貧乏揺すりをする時の波、まばたきの波… 全くランダムに見えるグラフ - 仮に脳内興奮物質の総量の時間変化として - を細かく分けて行ったら…? 実は些細な波の集まりが、さらに大きな振幅を持っているかもしれない。」
なるほど、僕たちの思考の波の周期は、少なくとも今晩、公倍数を見出した!あとは一拍先にシンバルを待つのみ。
第二百三十九夜 - 美しさと哀しさ
ひとの心やことばは、多くの場合、沢山の矛盾を抱えている。ある人が持つAという考えや傾向は、背後に必ず、その真逆のBという特質や力学を帯びている。例えば、人から大変強い心を持つと思われている人程、実は奥にフラジャイルな側面を隠している。

そして、一見対立するようにも思われるこれらの二つの概念は、実は相反するものとは限らない。それは本質的に根を同じくする類いの「結果」に過ぎず、単に一枚の絵画の図と地を見ているだけである。

強い人が抱く途方も無い脆さ - 正直さの背後にある疑念や諦め - 進んで孤独を希求する人が抱く密かな寂寥感 - でも不思議なことに、美しさの後ろに見え隠れするのは、醜さよりも寧ろ哀しさである。なんでだろうね。
***
We are quite often inconsistent - or, not infrequently our lives and words possess a lot of contradictions.
A late night call; a pile of ippitsu-sen sheets; colourful monochrome called life itself.
***
どんなに単純な性格だといつても、そこには、いろいろの影響が、二重三重に浸み込んでゐて、一見同じ型の気質のうちに、意外な陰翳の相違を発見し、またこれと逆に、どう見ても正反対だと思はれる人物の輪郭を通じて、どことなく共通の感じが迫つて来るやうな場合がある。 岸田國士『方言について』