本当に大事な美術館は

1)本当に大事な美術館は鑑賞者の眼のなかにある。自分だけの、形のない美術館。素敵なものに出会ったら、それを収蔵したい。どんなに社会が価値を認める作品でも、お金はかからない。無限のスペースもある。でも本当に本当に大事なものに出会うには、常に眼を開いていなければいけない。これが難しい。放っておくと生活のなかで瞼が閉じてしまう。

本当に大事な美術館は

なぜならば、自分だけのために輝く作品は、必ずしも額装されていないから。誰も教えてくれないから。それは単に五月の埃かもしれないから。だから意識して、僕たちは多くの場所に足を運ばなければいけない。自らの考える美を人と語り合わなければいけない。それがまだ、ことばの形をとらない意識の断片であっても。

2)本来は、ハレもケもなく、日々を心に贅沢に、美しいものに触れて暮らしたいもの。でも実践はとても難しい。今日は疲れているから本を読まずに寝ちゃおう。とよく思うし、この急須ちょっと変だけどとりあえず必要だから買ってしまおう。とも思う。本当はもっと丁寧に暮らしたい。完全な人はいないから、それはそれで情緒があって、逆さまにそんなものに愛着が芽生えちゃったりして、よい話になったりするのですが。

3)ではどうしたら、例の「心に贅沢に、美しいものに触れて暮ら」せるのか。矛盾するようだけど、例えば生活に強制的にハレとケをつくるのはどうか。すると心に波打ち際ができる。それをたのしみたい。

生活のなかの五月の埃を見出したいなら、あえて美術館に足を運び、設えられた美を感じる。なんでもない土曜日を丁寧に過ごしたいなら、あえて袴をつけるか帯を巻くかして、茶室を訪ね一服のお茶を点てていただく。するとハレとケが寄せては返し、混じり合う。対極のものをもたのしむ緊張感のなかで心の振り子が揺れ、すこし眠たい審美の眼が開く。波打ち際でダンス。