価値の融通、いたずら。二つの領域に両足をまたぎ、重心を移す

昨日に続きサカナクション 山口一郎さんから聞いたお話について。blue art by Bombay Sapphire の企画で、イベントに先駆けてインタビューをしていました。最も印象に残ったのは、「マイノリティとマジョリティに両足をかけて、その境界線をまたぐ存在でいたい。」という言葉です。

大体の趣旨を書くと、"ある人はポップなメロディラインに惹かれてバンドを知りライブに出かけるかもしれないが、いざ会場に行くと20数個の大型スピーカーがスタジアムを囲んでいて、音作りはシリアスなトランスミュージックのそれになっている。マジョリティの入り口から誘われた人が、ある種マイノリティ的なこだわりを目の当たりにする。「詐欺」みたいなものです” という発言でした(記憶によると、だいたいは)。それがきっかけになり、逆の世界に魅力を見いだしてもらえれば、とも。

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マジョリティ的魅力とは、彼曰く、わかりやすくて楽しい音楽とのこと。解釈するに、大衆に接近できる最大公約数的な魅力を持ち、時代の流れを捉えた価値がある一方で、大味で玄人好みになりづらいもの、かもしれません。一方マイノリティ的魅力とは、曰く、美しくて難しいもの。解釈するに、ある個人の尖った趣味によって磨かれた鋭利な表現による魅力で、大衆受けからは遠いが特定少数に刺さる力を持ち、玄人受けしやすいもの、でしょうか。

大勢を相手にするメジャー音楽シーンでは、多くのアーティストが、ともすると市場主義、マジョリティ主義になりがちなのかと想像していました(実際そうなのかもしれないが)。一方でマイノリティ主義とは、世捨て人的、自己中心的に美意識を追求する姿勢でしょうか。自己表現としてのものづくりや哲学を、どうにか社会に認めさせようと、悪態をつきつつもがく。さらには、二つの間のいい塩梅が見つからず、行きつ戻りつし分裂症的ジレンマに悩むケースもありそうです。

ぼくたち自身も、シーンは異なりますがデザインの仕事の中でこのように頭を悩ませることがあります。数千万のアクセスがあるウェブサイトのデザインを行うとき、すべてを論理に基づき作ることが本当に正しいのだろうか。ビジネスの言語で大きな組織を説得しなければならないときに、論理によらない、よい「遊び」や「無駄」を取り入れるにはどうしたらいいだろうか。または、ある個人の夢が形になったようなスモールビジネスは、そのドラマやストーリーも含めて、魅力に溢れていて応援したくなる。実際ファンもたくさんいる。にもかかわらず、ビジネスとして安定させるのが難しい…。といった悩みです。いずれも、マジョリティとマイノリティのあいだで、ビジネスをいかに運ぶか、そこでデザインができる仕事とはなにか、という問い。

その点山口さんのものづくりは、安易に片方に寄らない、そして両者の狭間でも悩まない。あくまで両者をバランスの中で表現する矜持と、メタな視点がある。

二つの領域に両足をまたぎ、場面に応じて重心を移すだけ—。いずれかに拘泥するのではなく、むしろ「いたずら心を持って社会実験を続ける、超越視点を持った職人」という姿、格好いいです。境界線で、にやにやしながらつまみをひねっている感じ。世の中に受け入れらる枠組みに自己の表現を押し込めるのではない。むしろ双方の間でシナジーを起こす、アウフヘーベンを起こす。この抽象的超越的視点は、あらゆるデザイナーが心に留めておくべきことです。数字で表現できる目的達成へのアプローチと、数値化できない価値の魅力を編み上げるために。

多摩美の久保田先生は、学生にこのようなメッセージを伝えるそうです。

作品で社会を変える必要はない。社会に自らを変えられてしまわないように、作品を作り続けるんだ。

さて「二つの領域に両足をまたぎ、場面に応じて重心を移すだけ」は、マジョリティとマイノリティのみに限らず、あらゆる二つの分野にあてはめられそうです。一見相反するように映る二つの領域間で、価値を融通すること。デザインとエンジニアリング、科学と文学、部分と全体、抽象と具象、など。みな、世界に問いたい、新しい価値がある。まだ未定義の新領域がある。これを「制約にとらわれている」と感じるのではなく、いたずら心を持ち愉しみながらできるか。価値を融通させる翻訳者になれるか。達成される結果だけでなく、その過程も美しいか。 

Bombay Sapphireはいま、「青」にまつわるさまざまなストーリーを収集しています。そして今回「blue art」という小さな展示会と、期間限定公開の特設ウェブサイトを展開中。第二回の会場は、SHIBUYA TSUTAYAの6Fと、7FのWIRED TOKYO 1999です。