接線の彫刻 "tangent sculpture"

以下のテクストは、ある「もの」について記述しています。これがなにか、わかりますか?

それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それはある一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満しているとは、我々はそれを空と呼ぶのだが、その場合でもその輪郭は光によって明瞭に示され、その質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。
指ではじく時それは振動しひとつの音源を成す。時に合図として用いられ、稀に音楽の一単位として用いられるけれど、その響きは用を超えた一種かたくなな自己充足感を有していて、耳を脅かす。それは食卓の上に置かれる。また、人の手につかまれる。しばしば人の手からすべり落ちる。事実それはたやすく故意に破壊することができ、破片と化することによって、凶器となる可能性をかくしている。

先を読み進める前に、ご自身でも考えてみてください。

これは詩人の谷川俊太郎さんによる散文からの抜粋で、「コップへの不可能な接近」という題が付いています。「コップ」が正解です。改めて読み返すと自明。でも言われないと、すぐにはわからないものです。コップという名前を使うことの明快さ、利便さに想いを馳せます。

しかしわれわれはコップという名前に、便利な記号や偏見に、逆に盲目化されていないか。名前を呼ぶことで、本来の芳醇な文脈を忘れていないか、深い考察を棄却していないか、そして本質も一緒に見落としてやいまいか。

接線の彫刻 "tangent sculpture"

接線の彫刻 "tangent sculpture"

逆に、ある場面でのコップを言葉豊かに語ってみれば。そして他の場面も枚挙すれば、むしろより正確にコップにアプローチできるのではないか。まるである曲線の上の無数の点各々に、その一点でだけ触れる接線を引いていくように。明快ではないけれども、少なくとも生き生きと情景を描くことはできそうです。

これに触発され、僕はデザインの仕事をするとき「接線の彫刻」 "tangent sculpture” という手法を使うことにしています。対象の名を口に出さず、それを十通りの異なる方法で記述するのです。

ある建築家がかつてこのように書いていました(記憶を頼りに再現)。建築家たるもの、自分の作品を十の異なる方法で語り分けられなければならない。施主、施工業者、現場責任者、周辺住民、構造家、建築ジャーナリスト、建築史家、学生、地域行政、家族など、語りかける相手はたくさんいます。その都度、論点はもちろん、語彙や語り口、強調すべき側面が変わってくる。一つの建築でも、複数のcontextを纏うのです。

ただ、全部を一度に語り尽す必要はありません。多くを語りすぎると、混乱を来して逆に誰にも伝わらなくなってしまいます。ジャムの選択肢が多すぎるときのように。でも言葉少なすぎてもいけない。ものがたりは編み物だから、最低限のほころびを用意して、そこから聴き手が自らの編み物を続けられるようにするべきです。

相手によって、どのcontextを強調すべきか変えることができる。でも意図したものと違うcontextが響くこともある。これは完全にコントロールできないし、しなくていい。またまったく勘違いされてもいい。誤読、誤配も、大事なコミュニケーションの結果です。